「巨人軍は永久に不滅です!」──長嶋茂雄が放った“日本野球”へのラストメッセージ
1974年10月14日、後楽園球場。長嶋茂雄、引退。その場にいた5万人、テレビの前で画面を見つめていた数百万の人々が、その言葉を耳にした瞬間、ただ静かに涙を流していた。
その言葉は、決して理屈ではなかった。感情だった。祈りだった。長嶋茂雄という存在そのものが、その一言に宿っていた。
長嶋茂雄という“神話”
長嶋は昭和33年、読売ジャイアンツに入団。初打席は4連続三振。その衝撃と、その後の伝説的活躍──華麗なフルスイング、軽やかな守備、走塁への執念。すべてが「魅せる野球」だった。
だが彼の真骨頂はプレーだけではない。「国民的スター」として、日本人の記憶と感情の中に生き続けるという点において、唯一無二の存在だった。
そんな彼が、現役生活に終止符を打つ場で放ったのが、あの一言だった。
なぜ「不滅」なのか?
「不滅」という言葉は、通常、宗教や思想、文学に使われる。だがこの日、それは“プロ野球”に使われた。特定のチーム名でありながら、長嶋の口を通じてそれは〈象徴〉となった。
巨人軍=日本の野球文化。
この国にとって、野球とは単なるスポーツ以上の意味を持つ。戦後、焼け跡の中で始まったナイター。ちゃぶ台を囲んでラジオから聞こえる実況。企業戦士が家に帰ってビール片手に見る巨人戦。それらすべてに「長嶋」がいた。
その文脈の中で、「巨人軍は永久に不滅です!」は、昭和の、いや日本人の“時代の記憶”に対する一種の供養であり、継承の宣言だった。
引退ではなく「継承」だった
普通、引退とは終わりを意味する。しかし長嶋のそれは違った。あの言葉は「私は去るが、この魂は残る」という宣言でもあった。
実際、その後のジャイアンツには彼の意志を受け継ごうとする選手たちが現れた。松井秀喜、阿部慎之助、坂本勇人……。彼らが放つ一挙手一投足にも、どこかに“長嶋イズム”が宿っていた。
つまり、「不滅」とは、物理的な存続を超えて“文化”として生きることを意味していたのだ。
名言というより“祈り”
長嶋茂雄は、言葉のプロではない。だが彼が放つ言葉は、なぜか私たちの心を打つ。なぜか。
それは彼の言葉が「練られた言葉」ではなく、「噴き出す思い」だからだ。考えるよりも前に心が動き、そのまま言葉になる。だからこそ、多くの人が感じるのだ、「これは本物だ」と。
「巨人軍は永久に不滅です!」も、まさにその最たる例だろう。
令和の今、我々に問われるもの
時代は変わった。プロ野球の視聴率は下がり、SNSがスポーツの新しい舞台となった。ジャイアンツ一強の時代は終わり、多様性の時代が到来している。
しかし──それでも、あの言葉は生きている。
野球に限らず、すべてのジャンルにおいて、「魂を込めて何かをやる」ことの尊さ。表面だけではなく、本質と愛を貫くという姿勢。それこそが、長嶋が我々に託した“本当の意味”ではないだろうか。
まとめ:その言葉は今も生きている
「巨人軍は永久に不滅です!」
それは単なるスポーツのキャッチコピーではない。昭和という時代、ひとつの文化、そして一人の男の生き様が凝縮された、たった一行の詩だ。
その言葉が消えない限り、私たちの中に“野球を愛した情熱”は生き続ける。
Geshioでした。次回は「失敗は成功のマザーです」を掘り下げます。
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