バスはいつ来る?海外の“時間感覚”が教えてくれた自由とストレス

2025年7月11日金曜日

Yuto Nomad 海外

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旅する書き手:Yuto Nomad

「あと3分で来るはずなんだけどな…」
私は日本で、アプリと時計を交互に見ながら、バスを待っていた。

数年前までなら「時間どおりって当たり前じゃない?」と思っていた。
でも、海外で暮らしてみて、この“時間通り”という概念がいかに日本特有かを知ることになる。

ケニアでバスを待つ、という冒険

はじめてケニアに行ったとき、私は現地の「マタトゥ」というミニバスを使って通勤していた。時刻表?そんなものはない。

運転手と助手が「人が集まったな」と思ったら出発する。客がいれば止まり、誰もいなければ猛スピードで飛ばす。「バスが来ない」のではなく、「バスを呼ぶ」感覚だった。

日本人の私は最初、それがどうしても理解できなかった。
「8時半には職場に着きたい」→「7時半にバス停へ」→「でもバスが来ない」。

ようやく来たと思ったら満席。次を待つ。さらに待つ。時計ばかり見ていた。

けれど、ある日ふと気づいた。現地の人たちは、全然イライラしていない。

待っている間に隣の人と話す。子どもと笑う。果物を買ってくる。
時間を「支配しよう」とするのではなく、“いま”を使っていたのだ。

フィリピンで習った「5分遅刻」の優しさ

フィリピンでも、時間は「おおらか」だった。

午前9時集合の会議に、全員が揃うのはだいたい9時15分。
日本だったら「遅刻」だけど、誰も怒らない。

ある友人はこう言った。
「5分遅れるのは、“急がせない”という気遣いだよ」

その言葉に、私はドキッとした。
日本の時間感覚は「正確」だけど、「厳しすぎ」ではないか?

いつの間にか私は、誰かが5分遅れただけで内心ザワついていた。
「だらしない」とか「失礼」とか。
でも、それって本当に“悪”なんだろうか?

時間に厳しいことは、優しさにもなり得るけれど、時に“追い立て”にもなる。

ドイツで見た「日本よりも厳しい国」

一方で、ドイツに行ったときは逆のカルチャーショックを受けた。
「ドイツ人は几帳面」とは聞いていたが、想像以上だった。

ある時、電車に5分遅れそうになった私は、駅で「ちょっと待って!」と走った。が、車掌は冷たく言った。

「時間に遅れる人を、私たちは待たない」

当然だ。彼らにとって“5分遅れること”は信頼を損なうことなのだ。

それは私が日本で、無意識に他人を裁いていた視線と同じだった。

どこの国でも、「時間感覚」は文化の写し鏡だ。
ただしその鏡が映しているのは、規律ではなく、“人との距離感”かもしれない。

日本に帰って思う「正確さは自由なのか?」

日本に戻ったある日、久しぶりに都バスに乗った。
バス停に着くと、アプリのとおり、バスは1分後にやってきた。

ピッタリの時間。無言の乗客。静かな移動。
だけどその車内で、私はなぜか落ち着かなかった。

「時間通りに来て当たり前」
「静かに乗るのがマナー」
「目的地まで最短で着くべき」

全部“正しい”けれど、なんだか息苦しかった

海外のバスでは、遅れても誰も怒らない。助手が乗客とジョークを言い、子どもが手を振る。運転手がラジオで歌を口ずさむ。
そこには、“人”がいた

時間に縛られていない世界には、「人の温度」がある。

時間は、時計では測れない

「バスはいつ来るのか?」

それは、ただの問いじゃない。
「あなたは時間をどう使いたいのか?」という、もっと深い問いだと思う。

ピッタリ来るバスもいい。
だけど、「いつ来るかわからないバス」を待ちながら誰かと話す10分も、かけがえのない時間だ。

まとめ:時間の正確さは幸せの条件ではない

  • 日本:時間どおりの安心感、でもプレッシャーも強い
  • ケニア・フィリピン:バスは来ないけど、人と人の“間”がある
  • ドイツ:時間厳守が信頼そのもの

自分にとっての「ちょうどいい時間感覚」は、世界を見てわかったこと。

最後に:あなたの「時間」は、誰のもの?

もしかしたら、今日も誰かが「バスが来ない」と文句を言っているかもしれない。
でも私は、あのときのケニアの空の下で気づいた。

時間は「管理するもの」じゃなくて、「味わうもの」なんだ。

Written by Yuto Nomad

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